こんにちは。金子吉友です。
吉田茂は、養子です。
実の父は、自由民権運動の政治家・竹内綱。板垣退助の系列にいた人物です。そして養父は——イギリスの商社、ジャーディン・マセソン商会の横浜支店長を務めた吉田健三でした。
その商社が何で財を築いたか、ご存じでしょうか。アヘンです。
ここのところ、満州地下人脈と自民党のルーツ、統一教会とCIA、そして清和会とCSISを続けて取り上げてきました。今日は同じ満州地下人脈の中にいた、もう一人の人物に焦点を当てます。
吉田茂。戦後日本の路線を決めた首相であり、麻生太郎氏の祖父です。
岸信介の系統と、吉田茂の系統。自民党のなかで対立軸として語られてきたこの二つが、実はどちらもアヘンの資金に行き着く——今日はそこまで見ていきます。
そして最後に、どこまでが記録で確認できて、どこからが確認できないのかを、はっきり分けて置きます。


目次
前提の確認——ここまでに見てきた線
本題に入る前に、ここ数日でたどってきた線を一度まとめておきます。今日の話は、この続きだからです。
満州地下人脈。岸信介を中心に、笹川良一、児玉誉士夫、里見甫。そして吉田茂、佐藤栄作、池田勇人、福田赳夫、大平正芳。戦後日本の首相を次々と生み出した人脈です。その二世・三世が、安倍晋三、小泉純一郎、岸田文雄へと続きます。
その資金源が、アヘンでした。中国における日本のアヘン政策は、日清戦争後から始まっています。満州でアヘンの専売を取り仕切っていたのが、国策会社の昭和通商。アヘンの密売を差配したのが里見甫で、岸信介もこれに深く関与していました。そこで得た資金の一部が、戦後にM資金という形で日本に持ち込まれ、自民党の資金になっていったとされています。
そして統一教会です。1968年1月に韓国で、同年4月に日本で国際勝共連合が設立されました。日本に持ってきたのが岸信介、笹川良一、児玉誉士夫。前々回の記事で書いたとおりです。
さらに——文鮮明自身が、満州地下人脈の一員だったという指摘もあります。なぜ岸信介と笹川良一が、韓国生まれの教団を日本に持ち込んだのか。戦中の満州時代からのつながりだった、と考えれば筋が通ります。
そして現在。笹川良一の三男・笹川陽平氏は日本財団の名誉会長。笹川グループの東京財団では竹中平蔵氏が理事長を務め、玉木雄一郎氏も研究員でした。松井一郎氏の父は笹川良一の運転手。小池百合子氏の都知事選を支援したのは笹川堯氏で、その父・小池勇二郎氏は勝共連合の支援を受けて選挙に出ています。
同じ名前が、宗教の線にも、シンクタンクの線にも、移民政策の線にも出てくる。これが、ここまでに見てきた構図です。
吉田茂は、養子である
実の父は政治家、養父は英国商社の支店長
まず家系を押さえます。

- 実父——竹内綱。自由民権運動の政治家で、板垣退助の系列
- 養父——吉田健三。ジャーディン・マセソン商会 横浜支店長
- 吉田茂は1878年生まれ。竹内綱の五男で、1881年8月に吉田健三の養嗣子となりました
- そして吉田茂の孫が、麻生太郎氏です
政治の家と、英国商社の家。この二つが、吉田茂という一人の人物のなかで合流しています。
家系図をもう少し広げると、名前はさらに増えます。吉田茂の妻・雪子の父は牧野伸顕。その牧野伸顕は、薩摩藩士で内務卿を務めた大久保利通の子(牧野家へ養子に出ています)です。そして麻生太郎氏の曽祖父・麻生太吉は「九州の炭鉱王」と呼ばれた人物で、岳父は元首相の鈴木善幸。
なお、配信で使われた家系図には伊藤穣一氏の名前も書き込まれています。これは2025年8月、彬子女王がブータン王室の招待で同国を非公式訪問した際、千葉工業大学学長の伊藤氏が同行・同席したと報じられた件を指しています。本記事では家系そのものに話を絞りますが、図にその記載があることは申し添えておきます。

吉田健三という人物
では、養父の吉田健三とはどんな人物だったのか。年表で見ていきます。

- 1849年——越前福井藩士の家に生まれる
- 15歳——脱藩。大阪で医学を、長崎で英学を学ぶ
- 17歳(1866年)——イギリスへ密航。2年間滞在し、西洋の知識を習得
- 帰国後——故郷の福井で通訳などに従事。川越藩から請け負った通訳案件がもとで詐欺に巻き込まれ、それが縁で1868年、ジャーディン・マセソン商会 横浜支店に入社
- 支店長として、日本政府との軍艦・武器・生糸などの取引で大きく成功
- 1871年——同社を退いて独立。慰労金1万円を元手に、英学塾、醤油製造、電灯、洋品輸入業などを展開し、横浜有数の富豪に
- 1872年——東京日日新聞の経営に参画。これを通じて板垣退助や、のちに吉田茂の実父となる竹内綱ら、自由民権運動の政治家と知り合います
- 1881年——盟友・竹内綱の五男・茂(3歳)を養子に迎える
- 1889年——死去。享年40
そして11歳の吉田茂に、50万円もの莫大な遺産が残されました。

17歳の密航は、誰が出したのか
ここで、どうしても引っかかることがあります。

1866年、イギリス軍艦での密航。当時の身分で、しかも藩の許可なく海を渡る。渡航費と、2年間の滞在費は、誰が出したのでしょうか。
そして帰国後、まもなく英国商社の横浜支店長に抜擢されています。
語学ができたから、能力があったから——それだけで説明がつく話でしょうか。私は、スポンサーがいた可能性を考えます。
もう一つ、時期の符合があります。健三がイギリスにいた1866年から1868年、ロンドンには長州五傑のうち山尾庸三と野村弥吉が留学していました。接点があった可能性は考えられます。
ただし——これは可能性であって、確認できた事実ではありません。健三個人とロスチャイルド家を直接結ぶ記録を、私は見つけられませんでした。ここは最初に断っておきます。

ここで、吉田健三の出自についても一言。
健三は越前福井藩士・渡辺謙七の長男として生まれ、吉田家の養子になった人物です。つまり吉田健三自身も養子でした。そして彼が吉田茂を養子に迎える。二代続けて養子で家が継がれ、そこに莫大な資産と国際商社の人脈が乗っている——血のつながりではなく、資産と人脈が受け渡されていく家だった、ということになります。
15歳で藩を出て大阪で医学を学び、長崎で学び、17歳で海を渡る。当時としては異例の行動力です。語学を身につけ、帰国後は藩の通訳を務めた。ただ、だからといって外国商社の支店長に抜擢されるというのは、やはり飛躍があります。
養父が勤めた会社——ジャーディン・マセソン商会
1832年、広州で設立
では、吉田健三が入った会社とは何だったのか。ここからが本題です。

ジャーディン・マセソン商会。1832年7月1日、清国・広州の沙面島で設立されました。
創業者は2人です。
- ウィリアム・ジャーディン——スコットランド出身。イギリス東インド会社の元船医から貿易商人へ
- ジェームズ・マセソン——スコットランド出身
そして、当時の主な業務が何だったか。清で販売が禁止されていたアヘンを、インドから清へ密輸し、清で生産された茶をイギリスへ輸出する。これです。
ちなみにこの会社は現在も存続しており、マンダリン・オリエンタル ホテルグループなどを擁する国際的なコングロマリットになっています。
東インド会社から出た人間が、アヘンで財を築いた。これが、この商社の出自です。

ここで一つ、線を引いておきます。配信でお見せしたスライドには、創業者2人を「スコットランド出身のユダヤ人」と書いています。ただ、この2人については、スコットランドの長老派(プロテスタント)の家の出だとする記述のほうが一般的で、ユダヤ系であることを示す記録を私は確認できませんでした。
アヘン貿易で財を築いたユダヤ系の商家として確認できるのは、のちほど触れるサッスーン家のほうです。ジャーディンとマセソンについては、「スコットランド出身の貿易商」までにとどめておきます。
アヘン戦争は、9票差で決まった
そして、この会社は歴史を動かしています。

清がアヘンを全面的に禁止し、イギリス商人が保有するアヘンを没収・処分しました。これに対して——ウィリアム・ジャーディン自身がイギリスへ渡り、政府内部にロビー活動を展開し、議会の説得に成功します。
イギリス議会が軍の派遣を決定したのは、わずか9票差でした。
そして1840年、アヘン戦争。3年後の南京条約で、イギリスは香港の割譲、五港の開港、治外法権を獲得します。ジャーディン・マセソン商会も、これによって急速に成長しました。
一商社のロビー活動が、議会を動かし、戦争を起こした。9票差という数字を見れば、この働きかけがなければ結果が違っていた可能性は十分にあります。
補足しておくと、イギリスがアヘンを売った構図は三角貿易です。イギリスは清から大量の茶を買っていましたが、売るものがなく銀が流出し続けました。そこでインドでアヘンを作らせ、それを清に売りつけて銀を取り返す。清の側から見れば、国民を中毒にされながら銀を吸い上げられていたことになります。
だからこそ清はアヘンを全面禁止し、イギリス商人のアヘンを没収・処分しました。自国を守るための当然の措置です。ところがイギリスは、これを「自由貿易の侵害」として軍を送った。アヘン戦争とは、麻薬を売る権利のために起こされた戦争でした。
そしてもう一つ。アヘンの密輸と販売で得た利益を、香港からイギリス本国へ送金する。その業務を担ったのが——HSBC(香港上海銀行)です。
戦争も、銀行も、アヘンの利益を守るための装置でした。

ジャーディン・マセソン商会がいまも存続していることも、押さえておくべきでしょう。
アヘン貿易で築いた基盤の上に、同社は現在もアジアを中心とした国際的コングロマリットとして事業を展開しています。マンダリン・オリエンタル ホテルグループのほか、外食や小売の分野でも多数の企業を傘下に置いています。
19世紀のアヘン商社が、形を変えて21世紀まで続いている。これは「昔の話」ではありません。
もう一つのアヘン商社、サッスーン財閥
ここで、もう一つの名前を出しておきます。サッスーン財閥です。
バグダッドからボンベイへ拠点を移し、アヘン貿易で知られた一族です。ジャーディン・マセソン商会とはライバル関係にありましたが、のちに和解しています。
そして——HSBCの最大の株主はサッスーン財閥だったとされ、サッスーン家はロスチャイルド家と姻戚関係にあります。
アヘンの利益は、銀行という形で残りました。

そして日本へ——英一番館とグラバー商会
1860年、横浜居留地1番地
1859年、横浜が開港します。

同じ1859年、上海支店にいたウィリアム・ケズウィックが日本へ派遣されました。ケズウィックは、創業者ウィリアム・ジャーディンの姪の子にあたります。
そして1860年初頭、横浜居留地1番地にジャーディン・マセソン商会の横浜支店が設立されました。地元の人々は、これを「英一番館」と呼びます。
さらに長崎です。1859年9月19日、トーマス・ブレーク・グラバーが、ジャーディン・マセソン商会の長崎代理店として「グラバー商会」を設立しました。グラバー商会は、江戸幕府や西南雄藩の艦船・武器の購入をめぐる取引で、主要な地位を占めることになります。
横浜と長崎。同じ商会の、二つの窓口です。

1863年、長州五傑の渡英を手配したのは誰か
1863年、長州五傑——伊藤博文、井上馨、山尾庸三、遠藤謹助、野村弥吉の5人が、イギリスへ密航留学します。

メンバーは、井上馨(当時28歳)、遠藤謹助(27歳)、山尾庸三(26歳)、伊藤博文(22歳)、井上勝=野村弥吉(20歳)の5人です。
この渡航に関わった人物を、整理して並べます。
- エイベル・ガウワー——駐日イギリス領事。5人はまずこの人物のもとを訪れました
- S・J・ゴーワー(サミュエル・J・ゴーワー)——ジャーディン・マセソン商会 横浜支店長(在任1862〜1865年)。出航を手配しました
- ウィリアム・ケズウィック——商会の幹部。密航に協力したとされます
- ヒュー・マセソン——創業者ジェームズ・マセソンの甥。ロンドンでの世話役。5人は英国で「マセソン・ボーイズ」と呼ばれました
- そしてトーマス・グラバーも、五代友厚、森有礼、寺島宗則ら薩摩の若者のイギリス留学を手引きしています
紛らわしいので補足します。「ガウワー」と「ゴーワー」は、どちらもGowerですが別人です。一方はイギリス領事、もう一方は商会の支店長。この二人が、それぞれの立場で関わっています。
5人は1863年、ジャーディン・マセソン商会の船で横浜を発ち、上海を経てロンドンへ向かいました。
留学は、本人たちの志だけで成立したのではありません。横浜から上海、そしてロンドンへ。その航路を押さえていたのは、アヘンで財を築いた商社でした。

ヒュー・マセソンとロスチャイルド家
長州五傑のロンドンでの世話役を務めたヒュー・マセソン。この人物が、その後どこへ向かったか。

興味深いのは、ヒュー・マセソン自身は、叔父の会社がアヘン貿易で儲けていることを嫌悪していたとされることです。
彼は独自にマセソン商会を立ち上げ、貿易と鉱山開発へ乗り出します。そして——イギリスとフランスのロスチャイルド家とともに、スペイン政府からリオ・ティント鉱山を購入しました。このとき設立された鉱山会社の大株主も、ロスチャイルド家です。
長州の若者を世話した人物は、ロスチャイルド家の事業相手でもあった。
ここから先、ライオネル・ロスチャイルドが伊藤博文と井上馨をロンドンに呼び寄せて育て、日本を管理する最高指導者にしたという記述があります(林千勝氏の著書)。ただし、この記述については一次資料の提示が見当たらず、私も裏を取れませんでした。そう語られている、というところまでです。

幕府にも、薩長にも
もう一つ、よく語られる見立てを置いておきます。両建てです。

- フランスのロスチャイルドが、徳川幕府を支援した
- イギリスのロスチャイルドが、薩摩・長州を支援した
対立する両方に資金を入れ、その対立を利用する。
グラバーが坂本龍馬の亀山社中を仲介役として薩摩に武器を売っていたことを考えれば、この構図は確かに成り立ちます。グラバーがフリーメイソンだったことも知られています。
ただし、これも見立てです。「ロスチャイルドが両方に資金を入れて日本を分断させようとした」と断定できる一次資料を、私は提示できません。構図としては筋が通る。しかし、筋が通ることと、証明されていることは別です。

11歳が相続した50万円——そして麻生太郎へ
なぜ、吉田茂なのか
ここで、なぜ吉田茂という人物がこれほど重要なのかを確認しておきます。
吉田茂は戦後日本の路線そのものを決めた首相です。
- 1951年、サンフランシスコ講和条約に署名し、日本は独立を回復しました
- 同じ日に、日米安全保障条約にも署名しています
- そして軽武装・経済優先という、いわゆる吉田ドクトリンを敷きました
つまり、戦後日本がアメリカの安全保障体制の中に組み込まれる形を決めたのが、吉田茂です。
一方、これまで見てきた岸信介は、日米安保条約の改定を進めた首相でした。路線は違います。吉田は軽武装、岸は再軍備。自民党のなかで、長く対立軸として語られてきた二つです。
しかし——その両方が、同じ性格の資金と人脈の上に立っていた。
岸信介は満州のアヘンとM資金、そしてCIAの資金。吉田茂は清のアヘンで財を築いた商社の養子として、その遺産と人脈を相続した。対立しているように見えて、源流では同じ場所に行き着く——私が今日申し上げたいのは、この一点です。
遺産と人脈
1889年、吉田健三は40歳で死去します。
残された遺産は50万円。現在の価値にすれば、およそ30億円と言われます。これを相続したのが、当時11歳の吉田茂でした。

吉田茂はこれを「吉田財閥」と呼んでいたそうです。もっとも、やがてその大半を使い果たしてしまったとされています。
しかし——受け継いだのは、金だけではありません。
吉田健三が築いた人脈。ジャーディン・マセソン商会のケズウィック家をはじめとする、国際商社の人脈。それもそのまま引き継がれました。

受け継がれたのは、金だけではない
そして吉田茂の孫が、麻生太郎氏です。

指摘されている接点が、2つあります。
- 麻生グループの麻生セメントが、フランスのロスチャイルド系のラファージュと合弁事業を行った
- 麻生太郎氏の娘が、フランスのロスチャイルド系の家の男性と結婚した
いずれも指摘されている事柄であり、本記事では一次資料までは確認していません。そのうえで申し上げれば——吉田健三から始まった人脈が、三代にわたって続いているという見方は、十分に成り立ちます。

世界政府という共通の目標
もう一つ、配信で触れた論点を書いておきます。
統一教会とロックフェラーが掲げた共通の目標は、反共の先にある「世界政府」だった——という見立てです。表向きは反共産主義、しかし本当の狙いはグローバリズムだった、と。
これに関連して、日本には「世界連邦日本国会委員会」という超党派の議員連盟があります。
- 1949年12月20日、衆議院議長の松岡駒吉を会長に、両院の超党派104名で設立
- 現在も約100名の国会議員が参加しています
- 名を連ねてきた政治家には、岸田文雄、菅義偉、菅直人、山口那津男、馬場伸幸、玉木雄一郎、福島みずほといった、現職・元首相や各党の代表が含まれます
世界連邦——つまり世界政府の実現を掲げる議連に、これだけの議員が参加している。これ自体は公開されている事実です。私はこれを知ったとき、正直に言って驚きました。
ただし、ここも線を引きます。配信では「その母体が日本会議である」と申し上げましたが、この点について私は裏づけを確認できませんでした。世界連邦日本国会委員会は1949年設立の超党派議連であり、日本会議(1997年設立)とは成り立ちが異なります。議連の存在は事実。母体についての説明は、確認できていない。そう分けて置いておきます。
ここは、線を引いておく
長くなりましたので、ここで整理します。
【記録で確認できること】
- 吉田健三は1866年にイギリス軍艦で密航し、2年間滞在した
- 帰国後、ジャーディン・マセソン商会 横浜支店の支店長になった
- 1881年8月、竹内綱の五男・茂を養嗣子にした
- 1889年12月1日に40歳で死去し、11歳の茂に50万円の遺産が残された
- ジャーディン・マセソン商会は1832年7月1日に広州で設立され、アヘンの密輸と茶の輸出で財を築いた
- ウィリアム・ジャーディンのロビー活動を受け、イギリス議会は9票差で派兵を決定した(アヘン戦争)
- 1860年初頭、横浜居留地1番地に支店が置かれ、英一番館と呼ばれた
- 1859年9月19日、トーマス・グラバーが長崎代理店としてグラバー商会を設立した
- 1863年の長州五傑の出航手配は、支店長S・J・ゴーワーが行った
- ヒュー・マセソンは、ロスチャイルド家とともにリオ・ティント鉱山を購入した
【確認できないこと】
- 吉田健三個人と、ロスチャイルド家の直接の関係
- ライオネル・ロスチャイルドが伊藤博文と井上馨を呼び寄せて育てたという記述
- トーマス・グラバーがロスチャイルド家の代理人だったという位置づけ
- ロスチャイルドが幕府と薩長の両方に資金を入れていたという両建ての構図
- 麻生家とロスチャイルド家の縁戚関係についての一次資料
商会の系譜は、記録にあります。個人の関係は、まだ記録にない。この二つを混ぜないことが、この種の話を扱うときの最低条件です。

そして、いまの自民党
ここまでたどってくると、なぜ自民党がこういう政党なのかが見えてきます。
満州のアヘンとM資金。CIAの資金。統一教会と勝共連合。そして清のアヘンで財を築いた商社の人脈。自民党は、この上に立って大きくなりました。
リベラル系とされる吉田茂の路線と、右派とされる岸信介の路線。別々に見える二つが、保守合同で一つの政党になった。しかし元をたどれば、同じ人脈だったのです。
そして——そこから維新が派生し、国民民主党が支持を集めている。これまで書いてきたとおり、松井一郎氏の父は笹川良一の運転手で、玉木雄一郎氏は笹川系の東京財団の研究員でした。別の政党に見えて、たどる先は同じ場所です。
裏金問題の清算も、実際には行われていません。処分を受けた議員は党の役職に復帰しています。
私は、この構造を「宿命」だと思っています。
ルーツがこうである以上、ここから抜け出すのは容易ではない。積み上げてきたものを、誰かが清算しなければならない。そしてその請求書は、いま私たち国民のところに回ってきています。30年以上伸びない所得。増え続ける税と社会保障費。そして物価高。
だからこそ、憲法改正にも私は慎重です。
自民党は「自主憲法の制定」を掲げてきました。しかし——アメリカとの関係を清算せず、主権を回復しないまま、憲法だけを変える。それは何のための改憲なのでしょうか。ルーツをたどったうえで見ると、彼らの言う憲法改正を額面どおりには受け取れません。
まとめ——今を正しく見るために、過去を見る
ここまでの線を、一枚に重ねる
ここ数日の記事を、一枚に重ねてみます。

- アヘン貿易——ジャーディン・マセソン商会、サッスーン財閥
- 満州のアヘン——里見甫の機関、国策会社・昭和通商
- 満州地下人脈——岸信介、笹川良一、児玉誉士夫
- 自由民主党——国際勝共連合(1968年)、統一教会
- 清和会——そして現在の内閣
資金の出どころをたどると、どちらもアヘンに行き着きます。
岸信介の系統は、満州のアヘンとM資金。吉田茂の系統は、清のアヘンとジャーディン・マセソン商会。自民党のなかで路線の違いとして語られてきた二つが、源流では同じ性格の資金に行き着く。
別々の話に見えて、同じ一本の線の上にあるのです。

補充ではなく、置き換え
そして、この話は過去で終わりません。
国連の報告書に出てくる「Replacement Migration」という言葉。日本語では「補充移民」と訳されています。
しかしReplacementは、補充ではありません。置き換えです。
どう考えても「補充」とは訳せない言葉が、なぜか日本語では「補充」になっている。私はここに引っかかります。
そして前回も書いたとおり、2027年4月に始まる育成就労制度の「上限123万1,900人」は、総数の蓋ではありません。育成就労と特定技能1号を合わせた数で、しかも2029年3月末まで。特定技能2号には受入れ上限も在留更新の回数制限もなく、家族の帯同も認められます。2号へ進んだ人は上限の外に出て、空いた枠はまた新しい人で埋められる。
お風呂の栓が抜けたまま、お湯を入れ続けているようなものです。

系譜は、いまの内閣まで続いている
2026年9月17日に発足した第2次高市改造内閣では、笹川良一の孫である笹川博義氏が、環境大臣として初入閣しました。

そして彼は、自民党の外国人労働者等特別委員会の事務局長を長く務め、育成就労制度の取りまとめにも関わってきた人物です。
顔ぶれが入れ替わっても、系譜は切れていません。

表層ではなく、構造を見てください
なぜ、私がこれほど歴史の話ばかりしているのか。
理由は一つです。いま起きていることは、結果にすぎないからです。
結果が起こるには、必ず原因があります。その原因は過去にある。過去があって、原因と結果を繰り返して、いまの結果がある。この連なりをたどらないかぎり、なぜ自民党がこういう政党なのかは、永久に分かりません。
「いつの間にか統一教会と関係ができていた」。「いつの間にかアメリカの言いなりになっていた」。そういう説明では、腑に落ちないはずです。最初からつながっていたのですから。
ただし——ここだけは、はっきりさせておきます。
系譜をたどることと、黒幕を名指しすることは、違います。
今日お話ししたことの大半は、公の記録で確認できる商社の歴史と、家系の事実です。そこに確認できていない推測を混ぜて「だから全部あの一族の仕業だ」と言ってしまえば、それは検証ではなく物語になります。私が線を引き続けているのは、この話を物語にしたくないからです。
表層ではなく、構造を見てください。
そして、構造を見るためには、確認できる線と確認できない線を、最後まで分けたままにしておくことです。

最後に、この記事の扱い方についてです。
今日の話には、公の記録で確認できることと、語られてはいるが私が裏を取れなかったことが、どちらも出てきました。私はそれを混ぜずに分けて書いたつもりです。
こういう話は、信じるか信じないかの二択で受け取られがちです。しかし本当に必要なのは、その中間——「ここまでは記録がある、ここからはまだない」と、自分で線を引ける状態でいることだと思います。
記録のある部分だけでも、自民党という政党がどういう土壌から生えてきたのかは、十分に見えてきます。そこから先をどう読むかは、お一人お一人の判断です。
ここまでお読みくださりありがとうございます。また次の記事でお目にかかりましょう。
今回の内容をさらに詳しく解説した動画は、私のYouTubeチャンネルで公開しています。ぜひご覧ください。
よくある質問(FAQ)
Q1. 吉田茂がロスチャイルド系だというのは、事実ですか?
「養父がロスチャイルド系の商社の支店長だった」という意味では、記録で確認できます。吉田茂は竹内綱の五男で、1881年8月に吉田健三の養嗣子となりました。健三はジャーディン・マセソン商会 横浜支店の支店長で、同商会はアヘン貿易で財を築き、ロスチャイルド家が出資していたとされる会社です。ただし、吉田健三個人とロスチャイルド家を直接結ぶ記録は、私には確認できませんでした。「ロスチャイルド系の商社に勤めていた」ことと「ロスチャイルド家の一員だった」ことは別の話です。
Q2. ジャーディン・マセソン商会とは、どんな会社ですか?
1832年7月1日、清国・広州の沙面島で設立されたイギリスの商社です。創業者はスコットランド出身のウィリアム・ジャーディン(イギリス東インド会社の元船医)とジェームズ・マセソン。主な業務は、清で販売が禁止されていたアヘンをインドから密輸し、清の茶をイギリスへ輸出することでした。アヘン戦争の際には、ジャーディン自身がイギリスで議会に働きかけ、派兵は9票差で決定しています。アヘンの利益を本国へ送金する業務を担ったのがHSBC(香港上海銀行)です。現在もマンダリン・オリエンタルなどを擁する国際的コングロマリットとして存続しています。
Q3. 長州五傑の渡英は、誰が手配したのですか?
1863年の出航手配は、当時のジャーディン・マセソン商会の支店長S・J・ゴーワーが行いました。ロンドンでの世話役は、創業者ジェームズ・マセソンの甥にあたるヒュー・マセソンです。ヒュー・マセソンは後に、イギリスとフランスのロスチャイルド家とともにスペイン政府からリオ・ティント鉱山を購入しています。また、トーマス・グラバーも薩摩の若者の留学を手引きしました。グラバー商会はジャーディン・マセソン商会の長崎代理店(1859年9月19日設立)です。
Q4. 岸信介の系統と吉田茂の系統は、対立していたのではないですか?
政策路線としては対立軸として語られてきました。しかし資金の出どころをたどると、どちらもアヘンに行き着きます。岸信介の系統は満州のアヘンとM資金。吉田茂の系統は清のアヘンとジャーディン・マセソン商会です。派閥の違いは、源流の違いではありません。ただし、これを「だから両者は裏で同じ勢力に操られていた」と言ってしまうと、確認できる範囲を超えます。源流の性格が似ている、というところまでが、記録から言えることです。

