こんにちは。金子吉友です。
満州国で阿片の金の流れを握っていたのは、古海忠之(ふるみ ただゆき)という大蔵官僚でした。
岸信介の、忠実な部下です。

ノンフィクションライターの魚住昭氏は、「岸の忠実な部下で、岸の人物像を裏表とも知り尽くしていた」と書いています。
この連載では「満州の阿片」を何度も扱ってきました。しかし、実際に現場で金を回していたのが誰だったのかまでは、踏み込めていませんでした。
その名前が、今回はっきりします。
そして、その人物の回想を読むと、阿片がどう国家の財源になり、どう戦費に変わっていったのかが、生々しく見えてきます。
目次
その前に——岸信介をどう評価するか

先に、私の立場を書いておきます。
岸信介という人物を、私は全否定しません。
満州国の経営を一手に担った、非常に有能な人物です。功も罪も、両方あると思っています。
いま振り返って「CIAの手先だった」と言うのは簡単です。しかしそんな単純な話ではなかったというのが、正直なところです。
考えてみてください。

火の車の政府財政を切り盛りし、戦費を調達し、エネルギー資源を確保し、武器と兵器を作り、兵隊を養い、食料を前線へ送り続ける。しかも一日たりとも途切れさせてはいけない。
その状況で、あらゆる金策をやらなければならなかった。
そしてやむなく、阿片が資金調達の有力な手段になっていきます。
0点か100点か、という見方はできません。当時の状況の理解も、想像力も足りないまま断罪するのは、共感力の不足だと思います。
そのうえで、記録に残っていることを見ていきます。
満州国の阿片政策は、どういう仕組みだったか

まず全体像です。
満州国の阿片政策は、日本が統治していた台湾の漸禁(ぜんきん)主義を手本にした国家専売が中心でした。
漸禁主義とは何か。
阿片を一気に禁止するのではなく、政府が管理しながら徐々に減らしていくやり方です。
1932年の阿片法では、すでに中毒になっている成人には吸飲を認める例外が設けられていました。ケシの栽培から阿片の製造・販売、吸飲所の設置、吸飲許可証の発給まで、専売公署とその下部組織が担う仕組みです。
財源としての阿片

ところが実際には、これが国と軍の重要な財源になっていきます。
機密費の出どころにもなっていた、とされます。
ここは数字を正確に書きます。平井廣一氏の研究によれば、満州国の歳入で1939年度まで最大だったのは関税収入でした。そして専売利益金と国債金は、それぞれ歳入総額の平均10%前後だったとされます。
配信で私は「最盛期には歳入の2割近く」と申し上げましたが、阿片単体の割合を示す資料は確認できませんでした。ここは訂正します。
それでも、専売全体で歳入の1割前後を占めていたこと、そして関東軍の工作資金にも流れていたとされることは、動きません。
年表で見る

時系列で整理します。
- 1894年ごろ——日清戦争の前後から、日本政府の阿片政策が始まる
- 1931〜32年——満州事変から建国の頃。関東軍はすでに阿片を占領地の財源の柱と考えていた
- 1932〜33年——阿片法が制定され、国家専売が始まる
- 1933年3月——熱河作戦に阿片工作班が同行。熱河は阿片の一大産地
- 1934年ごろから——専売の裏で密輸が横行し、熱河の阿片が中国本土へ流れるルートができる
- 大連——ヘロインの密売も盛んになる
- 1937年——日中戦争が始まったこの年、阿片吸引の登録者がピークの約81万人に達したとされます
- 1939年以降——陸軍系の国策会社昭和通商や、宏済善堂という組織が中国各地で阿片を流通させ、戦略物資と交換していた
- 1943年ごろ——中毒者の強制労働が始まる
- 1945年——ソ連が侵攻。関東軍は備蓄していた阿片を運び出そうとしたが、失敗に終わる

このすべての金の流れを握っていたのが、古海忠之です。
日本はなぜ、阿片に手を出したのか

ここで一つ、補助線を引いておきます。
阿片は、当時の中国大陸では現実に流通していた商品でした。清朝末期のアヘン戦争以来、中国社会には膨大な数の中毒者がいて、それを前提に統治せざるを得ない状況がありました。
だから「漸禁」という発想が出てくるわけです。
いきなり禁止すれば、中毒者は闇市場へ流れる。ならば国家が管理して、登録制にして、徐々に減らしていく——建前としては、合理性があります。
問題は、その建前が財源として機能し始めたときに、誰もやめられなくなったことです。
減らすための制度が、減らさないほうが都合のいい制度に変わっていく。
これは、現代の制度にも通じる話だと思います。
古海忠之という人物

経歴を並べます。
- 1900年生まれ。東京帝国大学を卒業した大蔵官僚
- 1924年、大蔵省に入省
- 1932年、満州国の建国とともに派遣される
- 最初の配属は総務庁の主計処——予算と会計を扱う部署で、ここに特別会計が含まれていた
- 阿片専売の収益は、この特別会計で処理されていた
- 1940年、経済部次長に
- 1941年ごろ、総務庁次長と企画局長を兼ねる——満州国の実質的な副総理格として、産業開発五カ年計画などの財政を支えた
つまり古海は、阿片の金の流れに、最初から関わっていたことになります。

そして上司が、岸信介でした。
岸が満州の経営に携わったのは1936年から1939年までの3年間です。古海は岸の在任中から財政の実務に関わり、岸が帰国したあとに総務庁次長に就いて、事実上の副総理格として満州国を動かしていきました。
岸が去ったあとも、金の流れは古海が握り続けた。
だから魚住氏は、「岸の裏も表も知り尽くしている」と書いたのだと思います。
上司は「断禁」を主張していた

興味深い記録があります。
1932年、満州国で最初の予算を作っていたころ、阿片をどうするかという議論がありました。古海の上司は「満州では阿片を断禁すべきだ」——つまり一気にやめるべきだと強く主張し、各方面を説得して回っていたとされます。
ところが、結果として選ばれたのは漸禁でした。
台湾の例にならって、一気にやめるのではなく、徐々に減らす。
そして専売制になった。
専売の実務責任者には、古海の大蔵省の同期である浪花慶一が就き、阿片の会計は特別会計として総務庁の主計処が管理したとされます。
やめるべきだという声は、たしかにあった。しかし通らなかった。
なぜ通らなかったのか。
台湾での前例があるという理屈は立ちます。しかし、それだけでしょうか。断禁すれば、その瞬間に財源が消えます。漸禁なら、減らしていく建前のもとで、当面の収入は確保できる。
やめると決めた人は、その年の予算を組めなくなる。
この構図は、制度を見るときの基本だと思います。
回想と供述が語るもの

ここからは、古海自身の回想と、中国側が公開した供述書に基づく話です。
供述書の扱いについて、先に断っておきます。
この供述は1954年3月、古海が中国に捕らえられていた時期のものです。どのような状況で取られたのかは分かりません。もし拷問によって引き出されたものであれば、それは証拠としては無効です。嘘の証言が含まれている可能性も含めて、差し引いて読む必要があります。
そのうえで、内容を見ます。
1937年、阿片断禁十カ年計画

供述書には、こう記されているとされます。
阿片断禁十カ年計画に関する関東軍および企画処主催の会議にたびたび出席し、これを審議し、断禁の緩和策を講じて、その決定に参与した
阿片をやめるための計画の会議に出て、その規制を緩める案を考え、決定に賛成した。
これを本人が供述している、ということになります。
熱河という場所

熱河(ねっか)という地名が出てきたので、補足します。
満州国の西側、現在の河北省北部から内モンゴルにかけての一帯です。そして阿片の一大産地でした。
1933年3月の熱河作戦には、阿片工作班が同行しています。
軍事作戦と、阿片の確保が、同時に動いていたということです。
そしてこの熱河の阿片が、専売の裏で密輸され、中国本土へ流れるルートができあがっていきます。
表に専売があり、裏に密輸がある。そして両方が、同じ国家の財布につながっている。
この二重構造が、次の話の前提になります。
1940年、熱河の工作と三井物産の2000万円

そして、もっとも生々しいのがこの話です。
1940年ごろ、古海が経済部次長だった時代。満州国は華北から鉄鉱石や石炭を大量に輸入していたため、貿易収支が悪化していました。
そこで関東軍の求めで、熱河の阿片の密売を使った工作を引き受けます。
仕組みはこうです。
- 軍と政府が、密輸業者の活動を黙認する
- その見返りとして、密輸で得た華北の通貨(連銀券)を満州国の通貨と交換する
- あるいは業者に資金を渡し、密輸阿片を集めて華北で売りさばく

この工作のために、古海は資金を用意します。
三井物産から、個人で2000万円を借りました。
ところが、工作は頓挫します。
業者が「軍や経済部の保護がある」と言いふらして現地でトラブルを起こしたため、計画は行き詰まり、借金が回収できなくなってしまった。
そして困り果てた古海が頼ったのが、ある人物でした。
「親友」と呼んだ阿片王

上海にいた里見甫(さとみ はじめ)です。
阿片王と呼ばれた人物であり、この連載でも何度か名前が出てきました。
古海は里見に阿片を送り、高く買い取ってもらおうとします。そして里見は2000万円を払い、古海の窮地を救ったとされます。
注目したいのは、古海が里見を「親友」と呼んでいることです。
これは魚住氏の記事が、古海自身の回想を引いて記しているものです。
国家の予算を預かる大蔵官僚と、阿片王が、親友だった。
この一行が、満州という場所の性格を物語っていると思います。
終戦間際——金1トンと阿片1トン

戦況が悪化すると、阿片は直接物資を手に入れる道具になっていきます。
古海の回想によれば、こうです。
- 飛行機で金1トンと阿片1トンを運び、南京政府の中央銀行の金庫に収めた
- 南京政府の副総理格だった周仏海に援助を頼み、周は協力を約束した
- 上海での交換は、里見甫の助けで進んだ
- 満州への大量の物資輸送については、海軍の艦隊司令部が「阿片を3トン出すなら責任を持って送り届ける」と約束した

海軍までが、阿片と引き換えに輸送を請け負った。
古海は「昭和20年の初めからこの計画を実行し、相当の成果を上げたが、8月に終戦を迎え、時すでに遅かった」と振り返ったとされます。
供述書には、ほかにもこうあります。
- 1943年4月——奉天や吉林の平地でケシの試験栽培を許可した
- 1945年4月——汪兆銘政権の側に阿片10万両を売った
- 1945年7月ごろ——関東軍が、新京周辺にあった備蓄阿片をすべて通化の基地に移すよう命じた。古海がその引き渡しを担当し、大量の阿片が関東軍司令部の正面玄関に積み上げられた
そしてソ連の侵攻で、輸送中に略奪され、残ったものは古海たちが床下に埋めた。
これが、満州国の最後です。
戦後——18年の拘禁と、1965年の参院選

古海のその後です。
- 終戦後、ソ連、そして中国で長く拘束されます。その期間は18年に及びました
- 1963年、ようやく帰国
- **その帰国には、岸信介ら保守派との近さが考慮されたとの指摘があります
- 帰国後は岸信介の世話になり、1965年の参議院選挙に自民党公認で全国区から立候補
- 結果は、落選
18年の拘禁から戻ってきた人物が、自民党の公認候補になる。
しかも全国区です。全国区というのは、組織票がなければ戦えない選挙でした。それでも擁立されたということは、担ぐ側に、担ぐ理由があったということでしょう。
この一点だけでも、戦前と戦後が切れていないことが分かります。

満州の阿片経営は、実質的には岸信介がマネジメントしていた。そして現場の金を回していたのが古海忠之だった。
そして二人の関係は、戦後も続いた。
ここから、自民党が始まっていきます。
記録は、どこに残っていたのか

ここまでの話の出どころを、整理しておきます。
- 魚住昭氏の記事——「アヘンとともに栄え、アヘンとともに滅びた満州国の裏面史」。『週刊現代』2016年7月23・30日号に掲載されたもので、現代ビジネスにも転載されています
- 古海忠之自身の回想——魚住氏の記事は、この回想を引いて書かれています
- 中国側が公開した供述書——1954年3月のもの。取得の経緯は不明
- 平井廣一氏の研究——満州国の歳入構成について
配信で私は「日刊ゲンダイ」と申し上げましたが、正しくは『週刊現代』です。訂正します。

こういう話は、新聞の一面には載りません。
しかし雑誌の連載や、研究者の論文や、絶版になった回想録の中には残っています。そして本人が書き残したものほど、強い証拠はありません。
誰かが告発した話ではなく、本人が「こうやった」と書いている。
だから私は、絶版本を探すのです。
なぜ、岸信介が選ばれたのか

ここからは、戦後の話です。
敗戦直後、アメリカにとって日本はまだ敵国でした。
自分たちに刃向かってきた相手であり、再び軍国化するのではないかという恐れもあった。だからどうやって従順にさせるかに神経を尖らせていた時期です。

ところが、冷戦が始まります。
日本の立ち位置が変わりました。
脅威の矛先がソ連と中国に変わり、日本は共産主義の防波堤として使える——そういう利用価値が生まれたのです。
よく言えばパートナー、実態としては最前線のコマです。
手厚いセットアップ

そこで白羽の矢が立ったのが、岸信介でした。
そして、非常に手厚い準備が行われます。
- 訪米のセットアップ
- 要人とのゴルフや会食のセッティング
- 英会話の授業の手配まで

一人の政治家を、国際舞台に立たせるための準備が、これだけ整えられた。
そして岸は、自民党内部の政策・資金・派閥の情報をアメリカ側へ提供していたとされます。

敗戦からわずか12年で、A級戦犯容疑者だった人物が総理大臣になりました。
資金はどう流れたか

日本国内の共産主義や社会党が拡大しないようにする——これもアメリカの狙いでした。
だから自民党を大きくしたほうがいい、という判断になる。

社会党と自由民主党に議席を争わせ、自民党に多く取らせる。そのためにCIAは秘密の工作を行い、資金をばらまいていたとされます。
その受け皿になったのが、岸信介と佐藤栄作でした。


そして重要なのは、この資金の渡し方です。

CIAが資金の出どころ、名目上は民間人のアメリカ人を経由、受け取るのは岸周辺の自民党政治家。この形にしておけば、発覚しても双方が否定できます。
最初から、責任を否定できる形につくられていた。
役割を終えると、切られた

そして、ここが一番冷たいところです。
- 1960年1月——新安保条約に署名
- 1960年6月——条約が発効
- そして——アメリカ側が岸への支持を打ち切る

安保闘争で対米感情が悪化し、岸は日米関係の負債になった。だから切られた。
そして次に支援されたのが、池田勇人の所得倍増計画です。

変わったのは看板だけ。親米保守政権と日米安全保障体制という根幹は、そのまま維持されました。
アメリカが守ったのは、岸信介という個人ではありません。体制のほうです。
役立つ人材を、次々とスイッチしていく。これがアメリカという国のやり方です。
そして、満州人脈はどこへ続いたか

古海忠之の話は、満州国の終わりで終わります。
しかし、人脈はそこで終わりませんでした。
この連載でたどってきた線を、ここでつなぎ直します。
- 岸信介——満州の経営を担い、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンへ。不起訴で釈放され、1957年に総理大臣
- 笹川良一——同じく巣鴨から出たあと、モーターボート競走の利権を手にする
- 児玉誉士夫——右翼の「ドン」と呼ばれ、CIAとの取引も指摘される人物
- 文鮮明——満州時代に岸・笹川とつながり、国際勝共連合の設立へ

そして、この三人(岸・笹川・児玉)が国際勝共連合を作ります。
反共を掲げて自民党の選挙を全面的に支え、ある年には150人中134人を当選させたとされる組織です。
ところが、その文鮮明はロックフェラーと密約を交わしていた、とされます。
日本の愛国保守を骨抜きにする、という約束です。

そして日本の信者から霊感商法で集めた金は、どこへ行ったか。
- 北米と南米への進出資金——レーガン、ブッシュ(父)への接近
- 南米では麻薬のシンジケートとの関わりが指摘される
- そして最後は、北朝鮮へ——文鮮明が金日成と会談し、巨額の支援を約束
カルト宗教の教祖であり、カルテルとの関わりを疑われ、政治の中枢に入り込み、アメリカの大統領に接近する。いくつもの顔を持つ人物でした。
その盟友が、笹川良一であり、岸信介だった。

そして敗戦利得者たちの子や孫が、総理大臣になっていきます。
- 二世の小泉純一郎
- 三世の岸田文雄
- 自民党からは笹川系列の維新が分派し、いまは連立を組んでいる
- 笹川系列の東京財団からは、竹中平蔵と玉木雄一郎——こちらはダボス会議の界隈へ
満州から始まった線が、ダボスまで続いている。
これが、私の言う「日本のディープステート」です。
ここは、線を引いておく

CIAと自民党の関係については、以前の記事でも扱いました。そのとき確認したことを、もう一度整理しておきます。

記録で確認できること
- 古海忠之が東大卒の大蔵官僚で、1932年に満州国政府へ派遣され、総務庁主計処、経済部次長、総務庁次長兼企画局長を歴任し、敗戦時には実質的な副総理格だったこと
- 古海が戦後、ソ連と中国で18年間にわたり拘禁されたこと
- 1940年に経済部次長となったあと、関東軍の要請で熱河省の密輸阿片を利用する工作を請け負い、三井物産から個人で2000万円を借りたが行き詰まり、上海の里見甫が2000万円を払って窮地を救ったこと(古海の回想による)
- 1944年に阿片と金を上海へ運んで物資を調達する計画を立てたこと
- 1945年7月、関東軍から新京周辺の阿片の引き渡しを求められ、ソ連侵攻後に一部が奪われ、残りを埋めたこと
- 岸信介が満州の経営に携わったのは1936〜39年の3年間であること
- 満州国の阿片政策が、漸禁政策と専売制の併用で、専売公署がケシ栽培から吸飲許可証の発給まで担っていたこと
- 満州国の歳入で1939年度まで最大だったのは関税収入で、専売利益金と国債金はそれぞれ歳入総額の平均10%前後だったこと(平井廣一氏の研究)
- 1958年の衆議院総選挙を前に、CIAが親米・保守系政治家へ秘密の限定的な資金援助と選挙上の助言を行い、資金源がCIAであることは伏せられたこと(米国務省が公開した外交文書集に記載)
確認できなかったこと
- 「阿片が満州国の歳入の2割近くを占めた」——専売全体で1割前後という研究はありますが、阿片単体の割合を示す資料は確認できませんでした
- 「中国側が公開した古海の供述書の内容」——文書の存在は確認できますが、取得の経緯が不明で、証拠としての扱いには留保が必要です
- 「CIAが1955年の結党資金を出した」「CIAが命令して自民党をゼロから作った」——これは断定できません


こうして分けても、残るものははっきりしています。
満州国では阿片が国家専売になり、その特別会計を扱っていたのが古海忠之だった。古海は岸信介の部下であり、岸が去ったあとも金の流れを握り続けた。そして戦後、18年の拘禁から戻った古海を、岸が自民党の公認候補として迎えた。
ここは、動きません。
11月28日の講演会について

最後に、少しだけお知らせをさせてください。
11月28日(土)、都内で講演会を行います。
テーマは、日米戦争はなぜ避けられなかったのかです。
日本とアメリカは、なぜ衝突したのか。その根本の原因をたどっていくと、100年や200年では足りません。大東亜戦争は1941年に始まりましたが、その300年以上前まで遡らないと、本当の原因は見えてこないというのが、私の結論です。

アメリカは、相当早くから日本を仮想敵として設定していました。
少なくとも大東亜戦争の40年から50年前には、すでに日本は仮想敵になっています。セオドア・ルーズベルトの時代に作られた対日戦争シミュレーション——オレンジ計画という名前まで付いていました。
ではなぜ、そんなに早くから敵視していたのか。
実は、目的は日本ではなかったのです。
アメリカが進もうとする方向に道をたどっていったら、そこにたまたま日本があった。だから、いずれ衝突せざるを得ないと考えた。
つまり問題は、アメリカがどこへ向かっていたのか、です。

そのモメンタム(運動の方向と量)がどこから始まったのかをたどると、アメリカの建国前まで遡ります。
ヨーロッパから新天地を求めてピューリタンが渡ってきた、あの時点から動き始めている。
建国までの流れと、建国してからの開拓の過程をつぶさに見ていくと、日本人には理解しにくい発想が見えてきます。フロンティアが消えたあと、太平洋を越えていこうとする拡張主義へ——モンロー主義を捨てて、帝国主義的な色合いを帯びていく。
この300年を駆け抜けると、見えてくるものがあります。
定員は20名の少人数で、会場に来られない方にはアーカイブもご用意します。今回は私のエネルギーのほとんどをここに注ぎ込んでいます。一つの作品を作るつもりで準備しています。
詳細は、追ってご案内します。
まとめ——満州は、まだ終わっていない
名前が出ると、構造が見える

「満州の阿片」と言っているうちは、まだ抽象的です。
しかし、特別会計を扱った官僚の名前、三井物産から借りた2000万円、親友と呼んだ阿片王、関東軍司令部の正面玄関に積み上げられた阿片——ここまで具体的になると、話が変わります。
これは記録です。そして記録には、名前が残ります。
なぜ、この話は避けられるのか

満州の話は、どこでも避けられます。
満州人脈を無視した政治の議論や近代史の議論は、それ自体がプロパガンダだ——視聴者の方からそういうコメントをいただきましたが、私もそう思います。
重要なことをやらない。言わせない。なかったことにする。
しかし、満州国がどういう国だったのかというところから見ないと、自民党は分かりません。
敗戦利得者たちが、戦後政治のトップに立った。そしてその人脈がいまも続いている。
表層ではなく、構造を見てください

総裁選のたびに、地上波もSNSも、その話題で埋まります。
さも日本の未来が自民党にかかっているぞ、と言わんばかりに。
一つの政党の総裁選を、なぜそこまで取り上げる必要があるのでしょうか。討論会を地上波で流す必要が、どこにあるのでしょうか。
それ自体が、選択肢を限りなく矮小化して、国民の視野を狭くする仕掛けです。
メディアが見せる表面は、こうです。 誰が総理にふさわしいか。派閥の動き。世論調査の数字。
その奥にある構造は、こうです。 その政党が、どこから来て、誰の金で大きくなり、誰に借りがあるのか。
そして日本は、どうするのか。
真の独立とは、真の主権とは、何か。
満州から始まった線が、いまも切れていない。まずそこを見ることだと思います。
よくある質問(FAQ)
Q1. 戦時中の阿片政策を、いまの基準で裁くのは酷ではありませんか。
A. その指摘はもっともだと思います。だから記事の冒頭で、0点か100点かという見方はできないと書きました。問題は、当時の善悪ではなく、そこで作られた資金と人脈が戦後にどう引き継がれたかです。
Q2. 中国側が公開した供述書は、信用できるのですか。
A. そのまま信用はできません。1954年3月、拘束下で取られたものであり、取得の経緯が分かりません。拷問による供述であれば無効です。だから記事でも差し引いて読む必要があると明記しています。一方で、古海自身の回想録と内容が重なる部分については、相応に重く見ています。
Q3. 古海忠之が落選したのなら、戦後政治への影響はなかったのでは。
A. 本人が議席を得たかどうかは、あまり重要ではありません。見るべきは、18年間拘禁された人物を、岸信介が公認候補として迎えたという事実です。そこに、戦前と戦後が切れていないことが表れています。
Q4. 結局、いま何を見ればいいのですか。
A. 名前と、金の出どころです。どの政治家が、誰に育てられ、どの団体の支援を受け、誰に借りがあるのか。それは公開情報で調べられます。総裁選の討論を何時間見るより、一人の経歴を一時間調べるほうが、たぶん多くのことが分かります。
ここまでお読みくださりありがとうございます。また次の記事でお目にかかりましょう。

